平成24年度SJS患者会総会講演記録

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高橋英樹選手講演:高橋英樹(広島東洋カープ打撃投手)

僕がスティーブンス・ジョンソン症候群と診断されたのは、1998年4月28日です。26歳のときです。その1週間前のことから話をしたいと思います。

4月21日、僕は2軍にいまして、神戸で試合がありました。試合は、大体12時ぐらいから4時ぐらいで、終わるとバスで宿舎に帰ります。そのときに、少し寒気を感じました。風邪かなと思い、広島に帰って厚着をしてすぐに寝ました。僕は、汗をかくと体調が良くなるタイプです。そのとき、薬は飲みませんでした。

22日の朝も体調が悪く、練習に行ってトレーナーと話をしました。トレーナーというのは、選手の体調管理をしたり、状態を監督に伝えるという仕事をしています。僕は、たぶん風邪かなと思って話をさせてもらったのですが、監督に呼ばれて、「ちょっと休め」と言われました。皆にうつしては大変なので、休ませてもらうことになりました。すぐに帰りまして、薬局に行って風邪薬を買いました。そこからずっと、寝て汗をかいての繰り返しを、2日、3日続けました。

23日の朝、体温を計ってみました。昔の赤い水銀柱の体温計です。それを体にあててみると、42度か43度ぐらいになりました。たぶん体温計が壊れているのだろうと思って、捨てました。

24日も症状は変わりませんでした。薬を飲んで、汗をかいて着替えて寝るという同じことの繰り返しをしていましたが、25日になって、体に異変を感じました。まず、口内炎ができました。唾が飲めないほどの口内炎です。それから、全身に水ぶくれが出ました。目もぼんやりして、真っ赤に充血している感じでした。それでも僕は薬を飲もうと、口内炎の薬、風邪薬、喉の痛み止め、それを時間をあけずに立て続けに飲んでしまいました。たぶん、クビになる年だったので、なんとかして早く治したいと思って、まず、やれることはやろうと、ただひたすら薬を飲んだ僕が悪いのですが。1年契約で、クビと言われたら何もなくなります。早く練習に出ないと1軍のチャンスがなくなるので、早く治したいと焦っていました。

治るだろうという自分の勝手な判断で飲んだのですが、26日にとうとう唾が飲めなくなってしまいました。眠れずに、1日、ごみ箱を持ってずっと唾を吐いていました。その日の夕方に先輩が見舞いに来てくれました。先輩は、僕の顔を見てびっくりしたようで、すぐにトレーナーに電話をしました。すぐにトレーナーが僕の家に来て、2軒の病院に行きました。1軒目では、症状と病名がわかりませんでしたが、2軒目で、「もしかしたらスティーブンス・ジョンソン症候群じゃないか」と言われて、すぐに入院しました。でも、相変わらず僕は、眠れず、ずっとごみ箱と闘っていました。

トレーナーに、母と兄に電話をしてもらい、27日の朝に大きな病院に移ることになりました。待合室でけっこう待っていました。寝ていないので、どうしても眠くなってしまいました。体力に自信はあったのですが、さすがに限界がきたなと思って、横にいた兄に、「もうだめだ」と言いました。すると、すぐに担架が来て運ばれました。そのときの熱が、42度から43度でした。そこで先生に初めて「スティーブンス・ジョンソン症候群ではないか」と言われました。確定ではありませんでしたが、そういう病名だろうということでした。

目も見えず、口内炎もできていて、眠れませんでした。「座薬を入れて熱が下がらなかったら集中治療室に行きましょう」という先生の声だけは聞こえて、これは大変なことになったのかなと思いました。たぶん2,3時間寝たのではないかと思うのですが、人の声で起きました。母も来ていて、お医者さんと話をしているのが聞こえました。母は泣いていたのですが、僕は眠れたことが一番だったので、安心している自分もいました。目が見えなくなっても仕方ないかなと。ただ眠たい。もうそれだけでした。

それから何日間か入院しました。そのときは、先生ともお話しできませんでしたし、面会謝絶だったので、誰が来ているかもわかりませんでした。1週間後ぐらいに症状がだんだん良くなってきて、目も、ぼんやりとですが、かすかに人の形がわかるようになりました。

皆の噂では、僕はヤバイ、死ぬ、という話が広まっていたらしいです。先生たちが、スティーブンス・ジョンソン症候群という情報を流していなかったので、もしかしたらエイズじゃないかという噂も流れたみたいです。

約1ヶ月入院して、不思議なことに治ってしまいました。たぶん、先生はびっくりしたでしょう。治ってからたくさんの先生が来ました。皮膚を採ったり、血液を採られたりしました。

退院の1週間前に検査をして、全部クリアできたら退院ということになりました。そのとき、先生と初めて話をさせていただきました。そこで初めて、病名と原因を聞きました。病名はおそらくスティーブンス・ジョンソン症候群ということで、原因は薬の副作用とのことでした。「おそらく」という言葉でしたので、確定ではありませんでした。ただ、薬をたくさん飲んだのは自分でしたので、そこは仕方ないのかなと思いました。ただ、先生が、「高橋くん、あの状態で病院に来たときは打つ手がありませんでした。集中治療室にいましたが、命の保障はできなかった」と言われました。症状は、失明のおそれがあるとのことでした。なぜ治ったのかは僕にもわかりませんが、先生がおっしゃるには、「体力があったからだ」とのことでした。

1ヶ月の入院で、70万円ちょっとの支払いをしました。そのときの年俸は1400万円です。でも、お金の問題ではないです。治ったことで、また野球ができるので、野球で取り返せばいいんだと思いました。

退院して7月に、社長をはじめ皆に挨拶に行きました。体力も落ちているので、まず一からやり直さないといけないのですが、戻すのに12月までかかりました。

母に、「体を壊してまでやる仕事か」と言われ、僕は笑っていました。答えは、もう決まっていました。体を壊してまでやる仕事だと。野球は大好きなので、野球で人生を終われたら最高だと思っています。

次の年、27歳のとき、復活しましたが、肩の肉離れで、広島東洋カープを退団になりました。体力を戻すのに1年はかかりました。でも、後悔はしていません。そこは、仕方ありません。実力がなかったせいだと思っています。

今も体に斑点はあります。視力は、測ったら2.0ありました。

今だから言えるのですが、選手としては終わりましたが、球団が打撃投手として契約してくれることになって、いろいろな意味で視野が広がりました。選手のころは、少し生意気なところもありましたし、わがままなところもたくさんあったんです。しかし、周りが見えるようになり、人にも優しくできるようになり、人の意見を聞けるようになったのも、打撃投手という仕事のお陰だと思っています。また、この病気があったから今の自分もあるのではないかなと思っています。ですから、野球に恩返しをしたいというのが、本当の僕の思いです。

最後になりますが、この病気をたくさんの方に知ってもらいたい。そして、もし体調が悪いと思ったら、早めに病院に行って、医師と相談するのが一番だと思います。自分は自分でしか守れないですが、病気は自分で判断してはいけないと思います。微力ですが、自分の経験しかお答えできませんが、これを機に、またこのような会があれば、僕でよければ、何か役に立てればいいなと思います。